Nurseryほんとうに最後の日2006年09月07日 02:08

アンジーと
今日は素晴らしい天気。早朝、練習をした後、小学校の先生が来るのを待つ。今日は新学期から学校に通い始める子供の家に先生が家庭訪問する日である。先生からいろいろと小学校の概要を聞いた。なんだかよさそうな雰囲気である。
YuをNurseryへ迎えに行く。今日は天気がいいのでWolfsonカレッジの公園に出て遊んでいた。全く英語がしゃべれないYuが、落ち着いてNurseryに来られるようにAbbeyやLisaやTrudyはホントによくしてくれた。
 Lisaとも明日が最後だと思うと、ちょっと感傷的な気分になる。子供が少ない事もあり、今日はLisaとゆっくり話をする事ができた。Lisaはお父さんがトルコ出身なのに、家ではまったくトルコ語を話さないようにしていたため、子供の自分はトルコ語を話す事ができない。それがホントに残念だ、と言っていた。budoriは、子供の頃に小学校のテキストで読んだ「最後の授業」が今でも印象に残っている。フランスが普仏戦争に負け、それによってドイツに併合されたアルザス・ロレーヌ地方の小学校の物語である。主人公の少年は、フランス語の文法が大嫌いなのだが、ある日学校へ行くと、明日からドイツ語の勉強が義務づけられ、フランス語はもう勉強できない事を知る。特に小学生のbudoriにはよく理解できなかったが故に、よく覚えているのは、物語の中で先生が「ドイツ語を義務づけられても、フランス語を忘れてはいけない、フランス語がある限り、牢屋に入れられていてもその鍵を持っている事と同じだ」と言う場面だ。今ではその意味がよくわかる。
 言葉は、それを学んだ人間の教養的背景はもちろんであるが、思考の過程、論理の展開、文化的背景、生きるために必要なもの全てがここから始まると思う。自分の母国語を学びながら、語彙を増やしながら、それらの中からどの言葉を選びどのように組み立てて、考えている事を伝えるのか。どのように言葉を組み立てれば、自分の考えているニュアンスを伝えられるか?こういう論理的な思考回路を育てるためにも、ひとつの言語をしっかり根付かせる事は大事だ。これにはモノを書く訓練も必要であるが、多くは本を読みながら、その内容を理解するために、文を行ったり来たりして文を分解しながら、著者の意図を理解していくという過程の中で学ぶように思う。(またその様な作業の中で「自分はこう考える」という習慣も身に付く)。Budoriの体験的な考えなので、Yuにもその様な方法がいいのかどうかはわからないが、しゃべれればいいという程度ではなく、複雑な表現ができる言語を、ひとつしっかりとモノにする事は絶対に必要だ。だから子供に早くから英語を習わせるよりも、名作と言われる作品をたくさん日本語で読ませたい(Yuはすでに英語を獲得する過程に入っているので、これはこれで維持できればいいとは思うが)。
ま、それはともかく、Lisaは卒園してからもたまに手紙をちょうだい、と言っていた。園長のAngyは、「Yuなら新しい環境でも絶対大丈夫」と言ってくれた。帰りは名残惜しくて、Nurseryの写真を撮って帰ってきた。

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